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――他のメンバーで大学に進学した人もいたよね?

ウン。 ベースとヴォーカルが行ったんだけど、オレはそういう理由もあって、早くデビューしたかったんだ。

――いまは、そこまでメジャー・デビューにこだわらなくても、インディーズでやっていけたりするから、ちょっと事情が違っているけど。

そうだね。 でも、筋少なんかは、あの時代でもナゴム・レコードっていう、インディーズのはしりみたいな感じのレーベルで、自分たちの音源を出したりしていたからね。

まあ、オレはメジャーでアルバム契約を取ってこそのデビューだと思っていたからね。

あと、そのころのへヴィ・メタル・ブームの終焉が見えていたんだよね、ジツは。 だから、とにかく早くデビューしたかった。

それから、さっき言ったようにお客さんが同世代ということの厳しいところは、みんながアメリカン・ドリームみたいに、そういうデビューを夢見ていたんだ。 楽器をやっているヤツも多かったしね。

そうなると、“いまステージに立っているヤツはどんなもんだろう ? ”って、偵察に来るようなお客さんが多かったんだよね。 しかも、オレよりも年上のお兄さんたちもいるし。 で、ギタリストっていうのは圧倒的に多いから、視線が痛かった。 だけど、そのおかげで確かに鍛えられた。

デビューしちゃうと、高崎晃も橘高文彦も同じ値段でレコードを売っているわけでさ。 それは自分にも言い聞かせていたんだし、どんなに厳しい世界なのかっていうのはわかっていたからね。

ただ、残念ながら、セールスっていうことでいう、そこで勝ち抜くことはできなかったね。 若かったからなのか、時代だったのかはわからないけど。 ただ、自分でも改善しなくちゃいけない点に気づいたり、すごくいい勉強になったけどね。

まあ、単純にギター・テクニック自体も、高崎晃や山本恭司というようなお兄さんたちと同じ土俵にあがってみて、“ああ、この人たちと同じカネは取れないな”って思っちゃったら負けだよね。

――え、そんなことを思った?

思ったよ。プロになったら、身近で接する機会ができたり、実際に恭司さんがデビュー・アルバムに曲を書いていただいたりしたわけでしょ。 ライヴを観に行っても、そっち側の目線で見せてもらうでしょ。 “ああ、やっぱりなぁ”って思ったよ。

アーミングやってみたりタッピングをやってみたり、当時の流行っていたテクニックを自分でも取り入れてみたりしたけど、がんばっている先輩たちを見ると、 みんなそれぞれが自分のスタイルを確立している人たちでしょ。 “オレには、まだ橘高文彦っていうスタイルはないな”って感じたんだよね。 確かに若さは武器だったし、デビューできた理由もおおいにそこにあったし、それは別に恥ずべきものでもなかったんだけど、そこから自分が年をとっていくうえで、 まず最初に手に入れなきゃならないのが、橘高文彦っていうギタリストなんだなって思ったよ。

――早くデビューしたおかげで、そのことに気がつくのも早かったんだね?

橘高:そうだね。ホントは、高校生の時点で、 20 代後半の人たちよりも、たくさんライヴ・ハウスでライヴをやっていたんだけれどね。 で、ストリートとかライヴ・ハウスだけの世界の殿様を気取っている先輩たちがたくさんいて。 そこだけにいたなら、気づかなかっただろうと思うよ。 やっぱり、メジャーな世界を見て、初めて大海原に漕ぎ出してみたときに、“なんて世界は広いんだ”ってね。 それはデビューしてみなきゃ、わからなかった。それを早く経験できたことだけでも、オレは恵まれていたんだなって思う。

インタビュー収録日 2005年9月

Vol.2に続く
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