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――ギタリストとしての橘高文彦のスタートを考えると、東京に来たことから始まると思うんだけれど?

そうだね。 14 歳のときだった。大阪府枚方市出身で、お受験する小学生だったんだ。 で、大阪の進学校に無事に合格して、そこに通うために大阪の南区に引っ越したんだけど、そこの校風が合わなくてね。

子供ながらに、いろいろとがんばってきたストレスっていうのがあったのかもしれないけれど、そこで挫折して、“オレはなんのためにがんばってきたのかな ? ”って、 気持ちにポカンと穴が開いちゃって、そこから不登校になってしまったんだ。

思い返してみれば、進学校を目指したっていうのも、親なんかを喜ばせてやろうって思っていたところもあって。 でも、ひとつゴールを向かえて、いざ入学した学生生活が、自分の望んでいたものでもなかった、みたいな感じでね。

不登校になっちゃって、親なんかと相談したら、環境を変えるのがいちばんいいだろうっていう話になって。 不登校になって、その環境のまま同じ学校に復学するのは、ほとんどムリだと思うね。 実際、オレもそれで環境を変えてみようと思って。

そのころ、アニキが東京の慶応高校に通っていて、日吉で下宿していたから、それなら環境を変えるために、兄弟ふたりで東京で住んでみたらどうだろうって。 家族的には、そういう理由で、東京に来たわけだけれど。

――高校生と中学生のふたり暮らしというのは、思い切ったね?

まあ、親は仕事があったから、兄弟ふたりで渋谷に住むことになったんだけれどね。

まあ、オレとしては小学校のときからギターを始めて、不登校のときでも、やることないからギターばっかり弾いていて。 どんどんギターがうまくなっているという自覚もあって。

“これはもしかしたら、ギターで将来食っていけるかもしれない”とか思いはじめて ( 笑 ) 。

そのころ、プロのミュージシャンなんて夢の夢。 日本で目立った活動をしていたプロのギタリストなんて、そんなにいるわけでもなかったし。 でも、東京なら、なにかすごいものがあるんじゃないかっていう期待もあった。

親としてみれば、“高校も東京の高校に通えばいいよ”っていうのがあったけれど、オレとしては高校に入ったらバンドを組んで、 楽しいロック生活ができるぞって ( 笑 ) 。 親にとってみれば、不登校だったオレが学校に通っているだけでうれしかったわけだからね。

だから、いちおうは高校の受験勉強もするということで、東京に来たんだ。

――じっさいに、勉強はがんばった?

東京に来てスゴイなぁって思ったのは、中学でもエレキ・ギターを持っている子が、けっこういてね。 まだ、その当時は“エレキを持っているのは不良だ”っていうような風潮が、子供のなかにあった時代だからね。 で、東京の中学の学園祭に出るために、初めてバンドを組んで。 なおさら、プロになりたいという気持ちが強くなっていってね。 でも、いちおう受験勉強もして。

――受験はうまくいった?

高校を選ぶのも、大学の付属高校ばっかり受けた。 6大学の付属はぜんぶ受けて、そのなかで立教高校に受かったんだ。 他に合格した所もあったけど、もともと、立教高校に行きたかったの。 だって、願書を取りに行ったときに、長髪の生徒がいっぱいいたから。 他の付属高校は厳しいところもあって、生徒も短髪だったんだけど、立教高校と慶応高校だけは長髪だったからね。

付属を選んだ理由のひとつは、親を安心させたいっていうのがあったのも確かだけど、 付属だったらバンドに専念できるだろうっていうのもあったんだ。

で、高校に入って、中学からの関係の連中と、すぐにバンドを組んだよ。 そのバンドが、冬になるくらいに、アルージュの母体になったスリージー・ラスターっていうバンドになるんだ。

中学生とか高校生だと、みんなコピーをやっていて。 もちろん、オレもコピーはやっていたけれど、最初からプロになりたかったから、コピーしている時間があるんだったら、 オリジナルの曲を作ったほうがいいと思っていたんだ。 だから、オリジナルをやることを前提に置いて、そこからバンドの音を作っていったんだ。
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